赤穂浪士の討ち入りの日とは?そして気になる家紋は?

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毎年12月14日は『赤穂浪士の討ち入りの日』というのを知っていましたか?
赤穂浪士について興味のある方はもちろん知っているかと思いますが、赤穂浪士自体を知らない人は知識を深める為に一緒に勉強しておきましょう!モンストのレアキャラでも『赤穂浪士』が出て来ますから、そっちでも興味のある方はいるんじゃないでしょうか。

それではさっそくご紹介して行きましょう!

赤穂浪士とはどのような人物だったの?

日本人なら知らない人はまずいないのが「忠臣蔵」
そしてこの忠臣蔵で活躍した人たちが「赤穂浪士」ですよね。映画、大河ドラマなどで、これまでに散々取り上げられてきましたので、あまり歴史に関心がない方であっても、討ち入り等のシーンを見たことはあることでしょう。

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しかし、赤穂浪士といわれても、なかなかよく分かっていないこともあるかと思います。「赤穂四十七士」と言われるように、47人が討ち入りに参加しました。さすがに47人全員は取り上げませんが、主要人物のみ見ていきましょう。

主役と言えるのは、大石内蔵助(くらのすけ)良雄。赤穂藩の家老で、「大石内蔵助」として有名ですね。しかし、「内蔵助」は官職名で、実名は「良雄」です。大石主税(ちから)良金。

名前からも分かる通り、大石内蔵助良雄の息子です。47人の赤穂浪士の中ではもっとも若いメンバーでした。

吉田忠左衛門兼亮(かねすけ)
赤穂浪士の中では大石内蔵助良雄の次の指導者でした。

堀部弥兵衛金丸。
大石主税良金とは逆に、最高齢になる参加者です。享年は77歳で、江戸時代の寿命を考えれば、かなりの長生きだったと言えます。事情を鑑みても、これだけ長生きしながら天寿を全うできなかったのは、少しもったいない気もしますね。

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堀部安兵衛武庸(たけつね)。
堀部弥兵衛金丸の婿養子です。

寺坂吉右衛門信行。
実は、彼は、後でも述べますが、討ち入りした47人の赤穂浪士のなかで、唯一、死ぬことなく、天寿を全うできました。

赤穂浪士 討ち入りの日はいつ?由来は?

「赤穂事件」のすべてのことの発端は、1701年3月14日に、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が江戸城の松之廊下で吉良上野介義央を斬ろうとしたという「松之廊下刃傷事件」でした。なぜ、一国の藩主である浅野内匠頭長矩が、このような信じられないことをしでかしたのでしょうか?

理由については、吉良上野介義央から嫌がらせを受け続けていて、怨恨があったとも言われています。

しかし、真相はいまだに謎とされています。
これを受け幕府は、浅野内匠頭長矩を切腹させ、結果、大石内蔵助良雄ら「赤穂藩士」は失職し、「赤穂浪士」になってしまったわけです。さて、事件の一方の責任者であった吉良上野介義央はどうなったのかというと、なぜか彼については「喧嘩両成敗」とはいかず、何の沙汰もありませんでした。

これでは、赤穂浪士が、主君の切腹と自分たちの失職に加えて激怒する理由として、無理もないことですね。こうして吉良邸討ち入りという赤穂事件が発生するわけです。

事件が起きたのは1702年12月14日でした。
つまり、浅野内匠頭長矩切腹から1年8ヶ月後にして、彼らは仇を討ったというわけです。吉良上野介を討った赤穂浪士たちは、吉良上野介義央の首を浅野内匠頭長矩の墓に供えると、寺坂吉右衛門信行を除き、1703年2月4日、「46人」全員が切腹しました。

彼だけ逃げ延びた理由は、「みずから逃げた」、「深い事情があって、あえて切腹させさせなかった」など諸説ありますが、明らかになっていません。

まとめ

赤穂浪士の討ち入りの日についていろいろな角度からご紹介しました。歴史的な人物としてとても有名な方だったんですね!筆者は社会や日本史が歴史など昔から不得意だったので今回調べることでとても勉強になりました。家紋なんかもいろいろありますからね。

実に深いお話で勉強になりました!

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